「地図を観察して考えたこと」

 本稿は「共通総合講座U(近代日本史と明治大学U)」の講義で2005年12月22日に提出したレポートを一部改変したものです。各図表はそのレポートをデジカメで接写したものなので、画質が多少粗いですが、ご了承ください。

 

1.はじめに
 地図はどのようなときに使われるだろうか。場所を案内するときにはもちろん使うし、旅行に持って行くガイドブックや、グルメ雑誌などにも地図が掲載されている。近年はカーナビが普及しており、ドライブのときも身近な存在になった。地図はこのように実用一点張りで考えられがちである。しかし、私は地図が必ずしも実用でしか使えないのとは思わない。地図を眺めていればいくらでも時間が潰せるし、地形や地名、鉄道の線形などを見ていると、その土地の文化や政治、歴史がそれとなく「想像」できるのだ。このレポートでは、地図の「本来の使用法」ではなく、非実用的な視点から地図について考えていく。

 

2.いろいろな地形図
 北海道が好きという人の多くは、その広さに魅力を感じているのだろう。函館から根室までの鉄道距離は、石勝線が開通するまでは東京・岡山間よりも長かったほどだ。また、地平線に向かって原野をひた走る道路も数多く存在している。私の地元は北海道だが、田園地帯の出身であるため原野というものを意識することはあまりなかった。だが、東京に出てきたある日、いつものように書店で地図を見ていると、とても興味深い地図を見つけることができた。(図1)

 (図1)5万分の1地形図「姉別」 1995年部分修正


 同じ北海道の生まれであるが、この地形図を手にしたとき、それまでに集めていた他の地形図とのあまりのスケールの違いに驚き、風景を夢想しながらいつか行ってみたいものだと等高線に見入っていた。
 北海道の多くの地域は明治時代に入植したケースがほとんどだが、姉別も例外でなく、明治13年に開拓使が訪れた。姉別は北海道の東部、根釧台地の中に位置している。根釧台地はなだらかな丘陵が続く地形なので、地形図でも割と間隔のゆるい等高線がうねうねと模様を描いている。これといった高い山は存在せず、また集落もなかったので、一直線の道路が敷設されたのだろう。ゼロから開拓が始まった北海道ならではの光景である。

 

3.地名の由来
 日常生活の中で、我々は実に多くの地名に出会う。年賀状を書くときなど、自分が足を踏み入れたことのない地名を綴りながら、友人の顔を思い浮かべては、どんな街なのかと想像したりする。私の出身地である北海道・滝川の地名の由来は、アイヌ語の「ソーラップチ・ペツ(滝のかかる川)」の和訳であるし、登戸は「川を登りついたところ」から由来している。明治大学のある生田は、菅生村と五反田村から一文字ずつ取った合成地名だ。このように、地名の由来は多岐にわたっている。
 ニュータウンにはかな書きの地名が多い。田園都市線沿線、特に川崎市北部から横浜市にかけての地帯は、そのようなかな書きや花の名前をあやかった新興地名が多い(図2)。横浜市青葉区だけでもあかね台、あざみ野、さつきが丘、しらとり台、すみよし台、すすき野、たちばな台、つつじが丘、みすずが丘、みたけ台、もえぎ野、もみの木台といった地名がある。それほど広くないこの区にこれだけのかな書き地名が存在しており、まさにこの地域はひらがなニュータウンとでも言うべきだろうか。宅地化する際にイメージアップのために付けた名前であろうが、このような地名はいかにも「ベッドタウン」といった感じがして面白い。


(図2)2万5千分の1「荏田」 1998年修正測量

 このように、市場を意識して付けられた地名は数多い。長野県の軽井沢を例に挙げてみよう。この地名は実に人気があるが、もともとは中山道にあった宿場だった。カルイザワの語源としては、「枯れ沢」説、あるいはカルワという言葉は古語で「背負う」という意味があることから、「重い荷物を背負って峠を越えたところ」などの説がある。明治以降、一部の上流階級の別荘地として開発が進んだ軽井沢では、当時の皇太子ご夫妻がテニスを楽しんでおられる姿が報道されるなど、そのハイカラで高級そうなイメージは多くの庶民に憧れを抱かせた。こうして、別荘は無理にしても、テニスやゴルフで遊んだり、旧軽銀座を散策したりと多くの人が集まる観光地として賑わったのである。
 これを不動産業者が見逃すわけはない。軽井沢の北に隣接する群馬県吾妻郡長野原町の南部には、当時軽井沢と草津を結んでいた草軽軽便鉄道の地蔵川という駅があったが、開発に伴い「北軽井沢駅」と改称され、この駅を中心に「北軽井沢」として発展していった。1986年には大字北軽井沢という正式地名にもなっている。
 他にも町域の外れに南軽井沢や軽井沢東といった地名ができたし、西隣の北佐久郡御代田町には西軽井沢病院、西軽井沢団地といったものが地図に掲載されている。また、軽井沢の西隣の沓掛(くつかけ)は1956年に駅名を「中軽井沢」に変更され、沓掛は歴史上の存在に退いてしまった。
 確かに「沓掛別荘地」では売れないのかもしれないが、地名抹殺の現場を見ていると、地理好きとしては何となく物悲しい。こうしたあやかり地名は、東京新宿区でも「角筈」が「西新宿」になったり、「柏木」が「北新宿」になったりと、比較的全国各地で見られる。
また、あやかり地名の有名な例としては山口県徳山市が知られている。ここには東京の地名をあやかって付けられている地名が多く、新宿通、有楽町、千代田町、青山町、原宿町、代々木町、晴海町、銀座などの地名が存在している(図3)。調べてみると、これらの地名が誕生したのはいずれも1960年代であり、旧町名とまったく関係のない地名であることがわかった。徳山のあやかり地名誕生の経緯に関しては不明だが、軽井沢の例では、時には地名が市場の原理に左右されるということがわかる。

(図3)2万5千分の1「徳山」 1991年部分修正測量

4.政治にゆさぶられる地図
 地図や地名は市場の事情に左右されると先述したが、政治情勢にも左右される存在である。例えば、「北方領土」の扱いが発行する国によって違う。ロシアの地図にはもちろん自国領として表紙されているのに対して、日本の地図を見ればもちろん日本領になっており、それどころか北千島の占守島とカムチャッカ半島との間にも国境線が引かれている。北千島の領有もまだ決まったわけではないということの意思表示であろうか。ちなみに北方領土の地形図は戦前に測量されたものであり、集落の状況などは現在と大きく異なっている。日本固有の領土であるからには地図がなければという政治的必要性に終われ、しかし正式な測量ができないので戦前の地形図から編集したものである。

 (図4)アメリカ100万分の1ONC航空地図「F−10」 1985改訂

 台湾についても、事実上ひとつの主権を持った「中華民国」という国が存在している。「中華人民共和国」の地図は完全に北京を首都とする中華人民共和国の一部となっており、冷戦時代に緊張が高かった金門島(台湾領)との間に国境線は記されていない。それどころか国家扱いをしていないので、台北には首都の赤い印も記されていない。
 一方で、台湾の地図でも中華民国の首都は台北ではなく、「南京」であると記されている。共産党に破れる前までは国民党を中心とする中華民国が中国全土を実質支配していたからだ。その後、蒋介石率いる国民党は台湾へ逃れたが、中国の支配権は中華民国が保持していると中華人民共和国に対して強硬的な立場を取っているため、首都を台北に変更することは不可能な状況だと読み取ることができる。

5.飛び地の現場から
 近年、市町村の大幅な再編を目指す「平成の大合併」で、隣接する自治体を飛び越える「飛び地合併」の新市町が相次いで誕生している。申請の締め切りが昨年度末だった旧合併特例法の財政優遇措置を受けるため、協議が難航した相手を外して合併を急いだことが直接の要因であるが、その数は来年3月までに計14市町に達する見込みだ。
中でも岐阜県大垣市は、来年3月に市域が3つに分かれる(図5)。当初は周辺9町を吸収した広域合併で人口30万人の中核都市移行を目指したが、行政サービス低下への不安などを理由に一部の町が離脱し、このような「複合飛び地」が生まれることとなった。
 青森県津軽地方の状況はさらに複雑である。この地域では合併で今年3月、五所川原市と中泊町、外ヶ浜町の3つの自治体が誕生したが、これらは互いに飛び地が入り組み、市域がまさに「まだら模様」の状態になっている(図6)。

(図5)   (図6)

いずれも2005年12月19日 産経新聞4面 

 また、川崎市の地図を見ていると、本来の川崎の市域から離れたところに「岡上」という地区があった。これも、隣接している自治体を飛び越えた「飛び地」である(図7)。

(図7)自作

 生田から一番近い飛び地ということだけあって、私はこの土地の事情が気になり、川崎や横浜の図書館で文献を探して、岡上の飛び地形成の経緯を調べてみた。

 まず、現在では町田市は東京都、川崎市は神奈川県と、お互いに別々の都県に分かれているが、1893年までは南は現在の町田市から西の奥多摩,東は現在の西東京市(田無、保谷)や世田谷区の千歳地区や砧地区まで、いわゆる「三多摩」は神奈川県に帰属していた。つまり、この一体はすべて神奈川県だったのである。しかし、現在の町田市は南多摩郡、岡上を含めた現在の川崎市や横浜市の区域は都筑郡というように,両者の間には郡境が通っていた。
 岡上地区は江戸時代以来、単独で「都筑郡岡上村」を構成していた。もともと岡上村は北隣の鶴川村と一番結びつきが強かったが、先述の通りここは南多摩郡であり、郡をまたぐこととなった。しかし、同じ都筑郡である南隣の田奈村(長津田村+奈良村=現・横浜市青葉区および緑区)との間には小さな峠があって(TBSの緑山スタジオやこどもの国の裏山)、現在もこの2つの村はお互いに背を向けている。そこで、岡上村は同じ都筑郡内で一番近い柿生村とペアを組むこととなった。
 昭和に入って横浜市が市域拡張を行ない、田奈村をはじめとする都筑郡の町村のほとんどは横浜市に編入される。しかし、小田急線沿線の柿生村と岡上村は横浜市には編入されず、同じ小田急や南武線沿線の橘樹(たちばな)郡の町村と一緒に川崎市に編入されることが決まった。こうして、岡上村はペアを組んでいる柿生村に引っ張られて、横浜市ではなく川崎市に編入されて飛び地という状態をとることになったのである。
 ここで「郡」という単位が登場したが、郡は1923(大正12)年の改革前までは市町村以上都道府県未満の行政単位として機能しており、「郡役場」や「郡長」といったものも存在していた。昨今の大合併で町村が消滅することに伴い、郡も消滅しつつあるが、選挙区割や警察署の配置などでは地域性を考慮する上でまだまだ重要な役割を担っている。

6.海外の地図
 日本で売られている世界地図の多くは日本が中心に描かれている。当然といえば当然かもしれないが、私の自室の壁に貼ってあるフランス製の世界地図はヨーロッパが中心であり、ヨーロッパにとって日本はまさに極東であるということが実感できる。
また、オーストラリアやニュージーランドで販売されている世界地図には、南北が逆に描かれているものがある(図8)。私が初めてこの地図の存在を知ったのは、高校生のとき担任から、十数年前の早稲田大学の入学試験で論文問題として「このような地図が登場した背景と理由を述べよ」というような問題が出たと紹介されたときである。北が上に位置している世界地図しか知らなかった私にとって、南北が逆になっている地図を目にしたことは実に衝撃的であり、まじまじと見入ってしまった。
 確かに北が上である理由はないが、場所が変われば考え方も異なってくるということが実感できる。他にもオーストラリアの世界地図では、北方領土はロシア側の領土であるとされている。これは、第二次世界大戦で、オーストラリアが日本と敵対する連合国軍に入っており、かつての敵国だったということが影響しているという。このように、世界地図には国際情勢やその国をとりまく状況が含まれている。

 (図8)

 

7.終わりに
 生田駅の隣に「向ヶ丘遊園」という駅がある。この向ヶ丘遊園駅は、1955年に改称されるまでは「稲田登戸」を名乗っていた。現在の多摩区一体を含んだ「稲田村」の登戸地区という意味合いだ。一方、現在の「登戸」駅は南武線が開通する以前は「稲田多摩川」駅であった。つまり、登戸地区の中心地は向ヶ丘遊園駅周辺といえるのではないだろうか。
このように、古い地図と新しい地図を見比べることで、その土地の歴史や文化、政治状況などがそれとなくイメージできてしまう。そして、様々な視点から地図を観察することで、無限の情報を得ることが可能であることがわかった。

 

参考文献
 今尾恵介「日本の地名・都市名」日本実業出版社、1995年
 今尾恵介「地図の遊び方」新潮文庫、2000年